余白の港 港の案内図から、一本の道が消えていた。 私は三十四歳で、破れた地図を直す仕事をしている。道を新しく造るわけではない。紙の継ぎ目を合わせ、消えかけた文字を読み、知らないことを空欄のまま残す。最後の仕事が、いちばん難しい。 修復に来た図は、木枠に入った港の案内図だった。東側の角に、長方形の白い紙が貼られている。そこだけ日焼けをしていない。 持って来たのは四十七歳の喫茶店主で、「昔の図に戻してほしい」と言った。 「この下には何が?」 「細い道。海が見える道」 「今も通れますか」 店主は、木枠の隅を親指でこすった。 「通れると思う」 思う、という言葉を作業票に書いた。店主はその二文字を見て、少し困ったように笑った。 白い紙を剥がすと、青い線が出てきた。道は喫茶店の裏で折れ、小さな四角に着いている。四角には「見晴台」とあった。その手前に、鉛筆で階段が描き足されていた。 私は青を足しかけて、筆を置いた。 古い色に合わせることはできる。でも、今歩ける道かどうかは、紙の色からは分からない。 店主と一緒に裏道へ出た。階段の下には網が張られ、見晴台へは上がれなかった。手すりの向こうで波が光っていた。足元には、小さな白い看板が伏せて置かれている。 「通れませんね」 「そうだね」 店主は、それ以上近づこうとしなかった。 「白い紙を貼ったのは、私なんだ」 階段が傷んで使えなくなったあと、案内図を見て店へ来る人がいた。店主は説明を繰り返した。ある晩、道だけ隠してしまえばよいと思ったという。 「昔の図に戻してほしいって言ったけど。戻るのは紙だけなんだよね」 「新しい階段にはなりません」 私は言ってから、冷たい返事だったかもしれないと思った。店主は怒らず、海を見ていた。 「あの場所へ行く人が、うちでお茶を飲んでた。道を消したら、店まで地図の端になった気がして」 工房へ戻り、私は二枚の紙を机に並べた。一枚は昔の図をそのまま直す案。もう一枚は、古い図の外に小さな余白を足す案だった。 「道を描けば、誰かが歩いてしまう。消せば、あったことまでなくなる。だから、今の案内を図の外に置くのはどうでしょう」 店主は、余白のあるほうを手に取った。 「余白って、書き忘れたところじゃないんだね」 「まだ確かめていないことを、分けて置くところにもできます」 古い見晴台へ続く線は薄い青で残し、横に「旧道・現在通行不可」と記した。店の裏口から海を見る位置には、店主と歩いて確認した短い線を引いた。見晴台と同じ眺めではない。階段もない。だから、同じ場所の代わりだとは書かなかった。 店主は自分の店の前に、小さく椅子の印を描いた。 「これ、入れていい? 外に一脚置いてる」 「今あるなら」 「今ある。片づけたら、図も直す」 印を仕上げると、余白はもう白いだけの場所ではなくなった。 木枠を返した翌日、私は港へ向かった。喫茶店の外に椅子が一脚あり、新しい案内図が窓に立てかけてあった。通行不可の文字は、遠くからでも読めた。 私は海へ行かず、その椅子に座った。店主が水を置き、注文を聞いた。 「いつもので」 言ってから、この店へ入るのは初めてだと気づいた。 店主も気づいたらしく、二人で笑った。それから私は温かいお茶を頼んだ。 地図には、行けなくなった場所も、今ここで座れる場所も載っている。どちらかを消さなくても、一枚にできた。 私は鞄から作業票を出した。「通れると思う」の二文字に線を引き、「本人と現地確認」と書き直した。紙を畳み、しまった。 湯気の向こうの海は、見晴台から見たことがない私にも、ちゃんと海だった。 完 AI共同制作のフィクション。登場人物・施設は架空です。