帰りの切符 雨の日、真琴の店には、修理より先に謝りに来る客が増える。 「昨日まで鳴ってたんですけど」 「水たまりに入っちゃって」 二十九歳の真琴は、どちらにも「見てみます」と答える。自転車は持ち主を責めない。錆びた場所を見つけ、できるところまで直せばいい。 人にもそれができれば、木曜の映画のあと、もう少しましなことを言えたと思う。 三年ぶりに会った直人と観た映画は、半分ほどしか覚えていない。帰り道に聞いた、福岡の店の話のほうが残っていた。厨房で一番若くなくなったこと。店長に、後輩へ仕事を渡すのが下手だと叱られたこと。三十一歳になっても朝の市場へ行く日は眠いこと。 彼はその夕方、鳴らなくなった自転車のベルを持って来た。直している間に映画へ誘われ、真琴は先に、福岡へ行ったあと連絡しなかった理由を聞いた。仕事でつまずき、いい知らせができるまで、と黙っているうちに三年たったという。映画へは行ったが、それで前の続きを始める約束はしなかった。 昔の直人なら、叱られたところは省いたはずだった。 「日曜には戻るんだ」と、駅前で彼は言った。 「そっか」 「明日、片づけが終わったら、夕方は空いてる」 「明日は仕事」 店の休みは月曜だ。真琴はそのあとに続けようとして、やめた。月曜には彼は福岡にいる。言ったところで、今度はどちらが予定を変えるのかという話になる。 それきり、二人は次の約束をしなかった。 金曜の午後、直人からメッセージが届いた。祖母の家で見つけた、洋菓子店の古い紙袋の写真だった。真琴の父が、店を開く前に働いていた店だ。 《これ、いる?》 真琴は昼食の包みを開いたまま、文字を打った。 《父に聞く。今日、六時までは店にいる》 送ってから、自分が直人に用事を作ったような気がした。けれど父の机の引き出しには、同じ店の菓子箱が一つ残っている。聞くこと自体は嘘ではなかった。 父は袋の写真を見て、「その店のロゴ、俺が入る前のやつだな」と言った。 「欲しい?」 「お客さんの家の物だろ。欲しいかどうかで決める物じゃない」 そこで話を終えるかと思ったら、父はもう一度写真を拡大した。 「でも捨てるんなら、もらってもいい」 真琴はその言い方ごと直人に伝えた。 彼が来たのは五時四十分だった。折れ目に沿って平らにした紙袋を、雨に濡れないよう透明な袋に入れて持っていた。祖母は今、姉の家に移り、日当たりのいい部屋で昼寝をしているという。 「元気なの?」 「昨日、俺の掃除の仕方に文句を言いに来た。箱の外に何が入ってるか書くなって」 「なんで」 「開ける楽しみがなくなるから」 真琴は笑った。そのあとで、彼のシャツの袖が左右とも短く折ってあるのに気づいた。前は片方だけ、いつも作業の途中で落ちていた。 「さっき、父のこと聞いてくれたから。駅前でお茶でも」 「まだ片づけるのに三十分かかる」 「待つよ」 「雨の中で?」 「向かいの本屋にいる。終わったら教えて」 真琴は返事をする前に、閉店までに返す自転車の台数を数えた。二台。一台はもう点検が済んでいる。今日、お茶を飲むために明日の仕事を残すことはなかった。 「六時半でよければ」 「うん」 彼が出ていったあと、真琴は作業台の紙袋を引き出しへしまわなかった。父に渡す物を、直人がいた印の代わりにするのは違うと思った。 駅前の喫茶店は、二人が知っていたより狭くなっていた。窓際の長いテーブルがなくなり、そこに厨房を広げたらしい。昔座った場所を指すと、直人は「もうあの椅子の背中、触れないんだな」と言った。 「覚えてる?」 「ぐらぐらしてた。俺が座ると後ろへ傾くから、いつもこっち向きで座ってた」 真琴が覚えていたのは、その席で直人を待った一時間だった。彼が覚えている椅子の話には、その日は入っていなかった。 注文を取りに来た店員に、真琴はホットコーヒーを頼んだ。直人も同じ物を頼み、店員が去るのを待った。 「木曜のこと、考えた」 「何を」 「連絡しなかった理由を、うまくいかなかったからって言った。でも、最初の二週間くらいで言えたんだと思う。そのあと、遅くなったこと自体が理由になった」 直人は紙ナプキンに手を伸ばして、使う用事がないと気づいたように引っ込めた。 「真琴が待ってるかどうかを、聞くのも怖かった」 彼が用意してきた説明を全部聞いてから答えようとした。けれど、全部聞けば、全部に返事をしなければならない気がした。 「私、三年間ずっと待ってたわけじゃないよ」 直人は顔を上げた。 「付き合った人もいる。半年くらい。あなたに悪いと思って終わったわけじゃない」 「うん」 「だから、三年分の埋め合わせをしてほしいとも思わない。ただ、また急に来て、またいなくなるんだったら、私は困る」 コーヒーが届いた。直人はカップを右手で持ち、熱かったのか受け皿へ戻した。 「福岡は辞めない」 「辞めてって、言ってない」 「でも、ここに帰ってくる気はないって伝えたら、会う意味がないと思われるかもしれないって」 真琴は、彼が言った言葉のうち、最後の一つだけを繰り返した。 「意味?」 「ごめん。違う言い方にすればよかった」 「すぐ直さなくていいよ」 店の外で信号が変わり、駅へ向かう人の列が窓を横切った。真琴はその列が途切れるまで待った。自分が何に引っかかったのかを、彼に当てさせたくなかった。 「私は店を続けたい。父も元気だけど、修理の大半はもう私がやってる。あなたが帰ってこないなら私が行く、って、そこから始める話はしたくない」 「そういう話にしたかったわけじゃない」 「うん。そこは聞けてよかった」 直人は窓を見た。真琴もカップを見た。沈黙の間に、二人がいつか同じ町へ住むという約束は生まれなかった。それでも、真琴は自分の店を小さく説明せずに済んだことに、少し安心していた。 「会いたいんだと思う」と直人が言った。「今の真琴に。また話したい。先を決めてからじゃないと駄目かな」 「先が決まってるふりをされるほうが嫌」 「じゃあ」 「でも、どうやって会うかは決めたい」 真琴はバッグから小さな手帳を出した。仕事の予約と、父の通院と、自分が行きたい展示の日が同じページに書いてある。直人とのために白いページへ書き直す必要はなかった。 「月曜なら、一時間くらい話せる」 「俺、月曜は休みのことが多い。でも仕込みが入る日もある」 「無理な日は無理って言って。連絡がないまま待つのはしない」 彼は自分のスマートフォンを出し、勤務表を見た。次の月曜には、午後から新人と市場を回る予定があるという。 「九時半なら空いてる。朝だけど」 「私も九時半ならいい。十一時には出かけるから」 二人は、その日の欄に同じ時間を書いた。真琴の手帳では、直人の名前は展示の予定より短かった。 日曜、駅へ向かう直人に、真琴は会わなかった。晴れて、朝から客が続いていた。後ろの座席から幼い子を下ろした女性が、空気を入れる間、店の前のベンチに座った。真琴はポンプを動かしながら、電車の時間が近づいたことを思った。 スマートフォンが震えたのは、客へ自転車を返したあとだった。 《切符、買った。明日九時半》 写真は添えられていない。真琴は、直人の乗る列車を見送るかわりに、自分の手帳を開いた。 《九時半。電話で》 それから、残っていた修理の番号札を一枚外した。 月曜の朝、電話は九時二十七分に鳴った。 早すぎる、と真琴は思った。受ける前に、湯を注いだマグカップを机へ置いた。店の奥の部屋では、父がラジオに返事をしている。 「おはよう」 直人の声の後ろには、換気扇の音がした。 「もう店にいるの?」 「いや、部屋。昨日、洗濯できなかったから。換気扇うるさい?」 「大丈夫」 真琴は、初めに何を話すか少し考えていた。来月の休みを合わせられるか。福岡へ行くならどこに泊まるか。彼の姉に、自分のことをどこまで話したか。 けれど、直人が「昨日、帰りにパン買ったら、鞄の底で平らになった」と言ったので、その話を先に聞いた。パンを包み直した紙には、祖母が残した買い物のメモがあったらしい。 「捨てちゃ駄目な気がして、持って帰ってきた」 「箱の外に書くと怒るのに」 「うん。自分で書くのはいいんだって」 真琴は笑った。机の上の手帳は開いたままだったが、次の約束を書く前に、一つ聞きたいことがあった。 「ねえ。木曜、ベルが鳴らなかったのは、本当?」 「本当」 「映画の案内は、ベルが鳴らなくなってから買った?」 電話の向こうで、換気扇の音だけが続いた。 「案内は無料だった」 「そこじゃなくて」 「店に行く前に、映画館で取った。上映時間を見てから」 真琴はマグカップを持った。コーヒーはもう、指に熱くなかった。 「じゃあ、偶然だけじゃなかったんだ」 「うん。偶然だけにしようとは思ってなかった」 彼が木曜に言えなかった一言を、真琴は月曜に聞いた。三年がなくなるわけでも、次の三年が決まるわけでもなかった。けれど、今度は自分で聞き、自分で受け取った。 「来週は、私からかけるね」 「時間は?」 真琴は手帳の次のページをめくった。九時半の欄には、まだ何も書いていない。 「勤務表を見てからでいいよ。水曜までに決めよう」 「わかった」 真琴は水曜の欄へ、小さく丸をつけた。待つ日の印ではなく、自分から予定を決める日の印だった。 電話を切ると、奥の部屋から父が「今日、どこ行くんだっけ」と聞いた。 「展示。十一時の電車」 「雨、降るぞ」 真琴は窓を開けた。店の前の道路はまだ乾いていた。傘を鞄へ入れ、手帳も入れた。次に直人と話す時間を、昨日までの空白と一緒に持ち歩かずに済んだ。 店の鍵は、今日は父の机へ置いた。 AI共同制作のフィクション。登場人物・施設は架空です。